寝屋川社協のつぶやき

寝屋川市社会福祉協議会・ボランティアセンターのつぶやきを書いています。

西北地域包括スタッフと1月17日について

2010年1月17日 阪神淡路大震災から15年たちます。「あれから15年」「まだ15年」みなさんいろんな感覚、想いなどがあるかと思います。今回は2009年2月に開所した西北地域包括支援センターの職員が1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災についてコメントを書きます。

スタッフは様々な経験をしながら今、西北地域包括支援センターという「場」で出会い一緒に仕事をしています。


 当時、ある特別養護老人ホームのヘルパー事業所でヘルパーとして働いていました。仕事の疲れもあり、その日はぐっすり寝ていました。地震発生時のひどい揺れ、怖い思い、不安を胸に抱えたまま出勤。職場から利用者宅に電話。訪問などで被害状況を確認しました。幸いケガ、負傷している人もなく、食器棚が倒れる等の被害だけで済みホッとしたものです。
震災から2〜3ケ月経つ内に利用者さんの息子さんが亡くなった・・・・・との話を聞き利用者さんに返す言葉がなかったのを思い出します。特養の施設でも、施設職員の手拍子で東京音頭を踊る神戸からの被災者の方がおられました。「神戸に帰りたい」といい施設から何回か出て行こうとされていました。「神戸へ帰る」と本人が訴えはじめ・・・帰ろうとすると職員が手拍子をたたくのです。反射的に東京音頭を踊られる利用者さんの無表情の顔を見るのはつらかったです。新聞記事で震災の写真を見たとき、東京音頭の曲と利用者さんの手が頭をよぎることがあります。(主任ケアマネ M)


 震災当時は自分のことしか考えていなかったように思います。テレビでボランティアの人の活動をみていました。「すごいな〜」と思うだけでした。毎日生活するということでもフワフワした気持ちでいたように思います。毎年震災についてテレビで見ると「生きているだけでありがたい」と強く実感するようになり、毎日を大切に又、支え合って生活しているんだと考えるようになりました。(社会福祉士 A)


 震災の日、私は千葉県にいました。18歳から15年間過ごした神戸の街が、火の海につつまれているニュースをみて、涙が止まりませんでした。私が働いていた病院では、電車が止まって動かない中、みんな自転車で職場に駆け付けたそうです。たすけられなかった生命もたくさんありましたが、いろんな人たちの協力で病院に運ばれ助けられた生命もたくさんあったそうです。あれから15年。
私の長男も15歳。人と人とのつながりを大切に、人の生命、自分の生命を大切に生きてもらいたいです。(看護師 H)


 当時、「ドーン」という揺れで目がさめ「地震や」と感じ、子ども達をかばい治まるのを祈りながら待ちました。テレビのニュースで、次第に被害の大きさが伝えられ驚きと不安でいっぱいになりました。そんな中、いつものように幼稚園のバスがお迎えに来たのには少し違和感がありました。
次の日から夫がボランティアのバイク隊として救援物資を配るために現地にかよいました。一つ一つの手作りおにぎりに「応援しています。がんばってください」と書いた紙が入っており、そのまごころのこもったおにぎりを配りながら涙が出てきたと話していたのが印象に残っています。あれから早く15年がたちます。被災者の方はどんな思いで過ごされたことでしょう。
生命を尊厳し、平和で安寧な日々が続きますように(プランナー K)


 1.17 少しずつ薄らいでいく記憶の中で、体に感じた「揺れ」だけは今は覚えています。震災をきっかけにいろんなことが見直し改善され考えだされ、そしてその経験を人から人。日本から世界へ伝えられていることをテレビで見て知り、天災には敵わない、でも、人の力はすごいと感じています。(プランナーT)


 たしか震災から3日目に西宮市に大阪府社協が災害支援のための現地事務所の設置関係で寝屋川社協から派遣されました。同時に現地の機動力のため、バイクを貸し出してほしいとの連絡もあり、職場の先輩のバイクを借りて国道43号線を使って現地に向かいました。大阪はネオンや街灯、家の明かりと普段の雰囲気でしたが、兵庫県に入ったとたん、状況は変わっていきました。災害支援の車両、消防車・・・・・街の明かりは暗く・・・・バイクを兵庫県社協の職員に引き渡し、現地事務所に行きました。無線設備の設置、ファックス、コピー機などの設置バタバタしていた記憶がありました。その後、現地事務所に派遣されたのは、震災から確か1カ月たつかどうかの時期でボランティア支援の担当で長期で全国から集まったボランティアと一緒に活動の調整や避難場所のスタッフの派遣調整などを行いました。
その時、東京から休暇をとってきたボランティアの想いの熱さには影響を受けました。仕事で来ている私は、ボランティアがなんとか少しでも気持ちよく、想いのこもった活動ができるようにと現地事務所のスタッフ全体とのパイプ役に務めました。愛知県下の社協職員と2人で夜遅くまでミーティングをしたり、西宮市社協の方とも今後のことについて話をしたりしました。その後は、職場のみんなで炊き出し活動を行ったりしました。今日の災害支援には社協がブロックごとで支援する仕組みができていますが、その原点は阪神淡路大震災です。社協として災害支援に向き合った出来事。今は、包括支援センターの業務から「もし、災害、地震がおこったら・・・・・」と考えて対策を考えていきたいと思います。(管理者 T)